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Profile

 

後藤 泉(ごとういづみ/Izumi Goto)ピアノ

 

桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園大学音楽学部ピアノ科卒業。同大学アンサンブル・ディプロマコース修了。田沢恵巳子、ゴールドベルク山根美代子、三浦みどり、P.ポンティエの各氏に師事。

2001年よりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団チェロ首席奏者フリッツ・ドレシャル、02年より同楽団元コンサートマスター、ウェルナー・ヒンクと定期的に共演を重ねる。以後、ウィーン・フィルの首席奏者と数多く共演。これまでに、ペーター・シュミードル(クラリネット首席)、ヴォルフガング・シュルツ(フルート首席)、ペーター・ヴェヒター(第2ヴァイオリン首席)ウィーン弦楽四重奏団、ダニエル・ゲーデ(元コンサートマスター)ほかと共演。また、ゲヴァントハウス管弦楽団のカール・ズスケ(元コンサートマスター)、ユルンヤーコブ・ティム(同チェロ首席)、ベルリンシュターツカペレのマティアス・グランダー(クラリネット首席)など海外のトップ奏者と数多く共演。

小林研一郎指揮日本フィル、井上道義指揮新日本フィル、ローマン・コフマン指揮ベートーヴェンオーケストラ・ボン、ローマン・コフマン指揮キエフ室内管弦楽団などと協演。

ベートーヴェン/リスト編曲(ピアノ版)交響曲第3番「英雄」&第1番、第9番、第6番「田園」&第4番のCDをリリースしているほか、交響曲全曲のチクルスも度々成功させている。またお話付きのコンサートや、NHK文化センター青山教室、横浜教室でのレクチャーコンサート、飛鳥Ⅱ船上でのコンサート、他分野とのコラボレーションなども好評を博し、各地で定期的な公演も数多く行われている。

 

物語profile

 

 母の手ほどきにより3才でピアノを始めました。母はピアノ教師で、家には近所の子どもたちが毎日のようにレッスンに来ていましたので。自分も母のように、近所のお姉ちゃんたちのようにピアノを弾くと、ごく自然にピアノを始めたのだと思います。

 やがて親子では言うことを聞かなくなり、母の大学時代の先生にレッスンしていただくようになりました。

 

 小学校5年生のとき、田沢恵己子先生の門下に移りました。そこには同じようにピアノを頑張る同年代の友人たちがたくさんいて、年に数回しか会わないけれど、発表会や練習会で、それぞれが弾くピアノ、ヴァイオリンに子供心に鮮烈な刺激を受けました。先生は怖かったけれど、自分も頑張る場所にいる誇り、喜びは何にも代え難いものでした。

 田沢先生はいつも私の良いところを見て、良いところ故の足りないところも容赦なく見てくださいました。伸び盛りの10才から15才までを親身に育ててくださった田沢先生なくして今の私はいないと思います。尊敬する偉大な先生でした。

 

 中学3年になり、ヴァイオリンの友人が桐朋の夏期講習会に誘ってくれ、何も知らなかった私は、行ってみる!くらいの気持ちで参加します。そして、全国で頑張る同世代が集まる場所、音楽学校というものがあることを知りました。しかし音楽科の高校に行きたいとの希望は、田沢先生に却下されました。高校までは広くきちんと勉強しなさいとのこと。しょんぼりした私に、そんなにやってみたいのなら、芸高(東京芸術大学付属高校)を目指してみたらと、とてつもなく狭き門の受験をすることになりました。

 1月下旬の寒い受験日、お茶の水にあった学校のあの控え室は寒さだけでなく、冷え冷えとしていたのを覚えています。当然、不合格でした。

 

 しかし、この時、夏期講習会を誘ってくれたヴァイオリンの友人のお母様から、今から桐朋を受けてみたらとお電話を頂きました。ここまで来たらと怖いもの知らずの私と母は、おそるおそる田沢先生にお話してみると、そこまで頑張る気持ちがあるのならと、応援してくださることになり、2月下旬の桐朋の受験に向けての日々が始まりました。

皆が10月の課題発表から準備を始めている曲を、ひと月足らずで準備するには、学校に行く時間はありませんでした。中学の担任の先生にひと月休ませてほしいとお話にいくと、欠席はだめだと。でも、1時間目だけ来て、あとは家に帰っていいという、とても寛大な許可を頂きました。近所の公立の中学校でしたので、あのときの先生方の大らかな厚意には感謝しきれない思いです。

 田沢先生、学校の先生方、家族、それぞれの絶大なるサポートと、猛練習の結果・・・何かの弾みで桐朋は私を合格させてくれました。大きな岐路でした。

 

 桐朋に合格はしたものの、それまで内部の先生に師事していた訳ではない私に、きっと合うからと山根美代子先生を紹介してくださったのは、田沢先生の甥御さんでもある桐朋の大学4年の有森直樹さんでした。雲の上の存在だった有森さんからのこの紹介が、また私の人生を変える出会いとなります。

 

 入学して早々に桐朋の学生ホールの電話ボックスから、初めて山根先生にお電話をしました。手短にレッスンの日時を仰られた電話の向こうの先生の声がとても滑らかだったことを覚えています。

 初めて山根先生にお会いした時、一緒に伺った母と私に、山根先生はまず仰いました。「なぜ、こんな学校に来たのか?」

母と私はきょとんとしました。山根先生は田沢先生と同じく、高校まではきちんと勉強しなさいと、音楽だけの偏った人間になるべきでないと懇々と語られ、今からでも来年他の学校に入り直すか、お茶の水女子大に素晴らしい先生がいらっしゃるから大学はそちらを受験しなさい、などと仰いました。

 しかしそんなお話をしてくださる山根先生のレッスンは、ただピアノが好きなだけで音楽の道に入った15才の私を根底からひっくり返します。音楽という芸術がいかに人の心に直接響くものかということ、西洋音楽が2000年のキリスト教の歴史とともに発展して来たものだということ、音楽は言葉なのだから、その歴史も文化も持たない私たちがその音楽を志すならばまずはその文法を知らなければ始まらないこと、響きの構造、時間と空間の概念。

 レッスン前の授業は手に付かないほど緊張したけれど、毎週のレッスンは待ち遠しく、毎回たくさんの大事なものを頂きました。

 

 今思うと10代の私の細胞にしみ込んだ貴重な体験がどれだけその後の自分を支えているかと思います。その頃は、こんなに素晴らしい経験が、未熟な私の指の隙間からこぼれてしまうようで、とても恐かった。こぼしてしまうことが申し訳なくて、もったいなくて、がっかりでした。でもそうではない。その頃山根先生も仰ったように、必ず残るものがある。わからなくても引き出しに入れておけばいつか出てくる。こぼれ落ちてなどいなかったのです。

 山根先生は音楽や考え方が素晴らしいだけでなく、たいそう美しくお話上手で魅力的な女性でした。私にとってすべてが憧れで、先生がお亡くなりになるまで、20年近く長くお世話になりました。

 

 どれだけの方に出会い、影響を受け、そしてお別れしてきたでしょう。そして、どれだけの音楽が私の心を震わせ、力を与えてくれたでしょう。

 一つの音、ひとつの曲が描かれることは、限りなく美しい世界を現し、そしてそれらが消えて行くことは、その美しい世界への追憶とともに未来への期待を孕んでいます。

 音楽とともに生きられることに感謝したいと思っています。

profile

 

生まれた場所 山形県酒田市

 

育った場所 埼玉県八潮市 草加市 越谷市

 

今までで一番感動したピアノ 某所のベーゼンドルファー

 

現在まで感動が残っているコンサート&舞台 

  ラドゥー・ルプーピアノリサイタル2013@東京オペラシティ

  ボリショイバレエ2014「バヤデール」ザハロヴァ@東京文化会館

  小菅優ピアノリサイタル2015@紀尾井ホール

  ムソルグスキー:オペラ「ホヴァンシチナ」2015

              ゲルギエフ指揮@マリインスキー劇場

 

好きな食べ物 鮨 牡蠣 パスタ トマト 筍 パクチー

 

好きな飲み物 ワイン 日本酒 アマレット アールグレイ 

 

好きな果物  グレープフルーツ 桃 すいか

 

好きな香り 金木犀 マッチが燃えるときの匂い

 

血液型 B型

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